カテゴリ:コラム( 2 )

 先月、私用で東京に行った帰りに少し寄り道して、イエローサブマリン千葉店で開催中の模型コンテストを見てきた。いつもRUN氏のレポートで紹介されている通り、ハイレベルな作品がずらりと並んでいた。全ての作品を一つ一つ丁寧に鑑賞した後、所定のルールに従って投票し、大阪への帰路についた。


 間もなくおっちゃー氏のサイトで結果が発表された。受賞作品は大方の予想通りで、番狂わせは無い様に感じた。


 “予想通り”。何も自分の見る目があったと言いたい訳ではない。良く出来た作品を「これがいい。」と判断するのに、どんな人間にも大差はないのである。そしてその見た目通りの結果がここにある。


 この結果を見て、ふと「これが大阪ならば・・・。」という考えが頭をよぎった。




 大阪の人間は総じて自己主張が好きである。その自己主張の変異が目立ちたがりであるが、そうではない一見おとなしそうな人間でも、自分からそれなりに意見を述べる。ただ、人に賛同するだけで話を終えてしまう人間はほとんどなく、人と違った意見を独自の視点で主張し、それが賛同を得られると得意満面である。


 これは特にファッションの分野で、より顕著に見られる事例であるが、ファッションやアートなど、独自の価値観で判断を下すものに対して、大阪の人間は流行に乗る、つまり人と同じようにすることを嫌い、自分を特化なポジションに置く事を良しとする。


 この大阪人気質は、コンテスト作品の評価においても時々顔を出す。先にも述べたように、良い作品は誰がみても良い。しかし、いざ投票するとなると、「みんなが票を入れそうな作品に投票しても、何や普通やなあ。そんなことしたら、後で話する時にみんなに「ああ、やっぱりな。」って言われて会話終わってまうやん。」などと言うことが頭をよぎり、みんながズッコケそうなネタ、あるいは何か特化な手法を用いた作品を探してしまうのだ。


 そして多くの投票者にそういう心理が働けば働く程、コンテストの結果はワケの分からん方向に暴走していく。こういう人間達に囲まれた作品は、悲しいことに完成度が高ければ高いほど、票がとれない。そして大本命と思われる作品が大賞に届かなかったら、「オマエがあんな作品に投票するからやんけ。」とお互いにツッコミあい、笑うのである。


 この例え話で大賞を逃したモデラーにとっては、大変気の毒な話であるが、我が街大阪では、リアルにありそうな話である。もちろん大阪人が常にこのような行動をとっている訳ではないが、まれに模型コンテストの結果について、そうとしか考えられない分析結果が導き出されることも事実である。なぜそんなに人と違うことをしたがるのか?なぜそんなに“笑い”を重要視するのか?



 こういった大阪人の気質は、よく『大阪は中小企業を中心とした商人の町。個人で商売をするには人と同じようにしていたのでは儲からない。とにかく服装でも何でも、人と違ったことをして、客によく覚えてもらわなければならない。そして上手く商談を成立させるには相手に機嫌よく話を聞いてもらわなければならず、常に相手に笑っていてもらいたいという心理が働いている。このようにして培われてきた風潮が、今も大阪の街に息づいているためだ。』と解説される。


 このような学説が正しいかどうかは、我々大阪に暮らし、日常的にボケとツッコミにまみれている人間には、知る由もないが、大阪人=商人と、もはや日本全国でそう認知されている。そこはかとない嫌悪感とともに。


 確かに大阪の人間は経済観念についてはシビアだが、そう儲けることばかり考えているわけではない。無駄は相当に嫌うけど。


 無駄を省く=儲かるとも言えるのだが、“儲かる”という響きが嫌いなら、無駄を省く=合理的と言い換えれば良い。この“大阪人の合理的な発想”は日本全国に誇れるものであるということは間違いない。たとえ少々特異な感じがしても、自分が便利だと思うことを実践するのに、何のためらいもなく、また、周囲もそれが面白いと感じたなら、賛同することに躊躇しない。このような考え方や行動力が土壌となって、大阪発の文化や経営方法が全国に浸透していった例も少なくない。



 MGの発売以降、ガンプラブームが復活し、プラモデルそのものの進化とディティールアップパーツや工具の充実、さらに個人がホームページなどで作品を公開する機会が増えたおかげで、ガンプラ製作のハウトゥも事細かに解説され、誰でも簡単に、素晴しい作品が作れるようになった。もちろん、模型誌においてもガンプラコーナーは大盛況だ。


 ただ、深く掘り進んで模型を楽しむには、雑誌やHPなどで人から受け取った知識や技術を、そのまま実践するだけではもったいないように思う。それを自分なりに消化し、何とか自分の形にして提案していきたい。


 たとえ平均的な技法や技術しか持ち合わせていなくても、それを新しい発想で組合わせることで、これまでにない、全く新しい模型シーンを提案することは十分に可能であると、私は思う。


 何も、自分で新しい技法を開発することはないのだ。欲しいのは発想。これも特別な発想はいらない。一般にはくだらないと思われていることでも、力いっぱいやれば、見ている方にも何かしら伝わるものがあるはずだ。すると、いつかそれがスタンダードになるという可能性だってないとは言えない。


 これは地元びいきによる願望からくる、偏見に満ちた妄想であるが、恥ずかしがらずに我が道を行き、柔軟な発想で物事を推し進める大阪から、次世代のガンプラシーンのスタンダードが誕生することがあるかもしれない。
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 昔、ダウンタウンのガキの使いで、日常のヘイポー氏の特異な行動について、裁判をかける、という企画があった。


 その中で、「コイツは、コンパの時、女の子にいきなり“S”か“M”か尋ねて、場の雰囲気を壊す。」という提訴があり、それに対して被告であるヘイポー氏は、「だって、“M”の娘と話をしても仕方ないじゃないですか!」と弁明していた。


 「その通りじゃないか。」と、僕は思った。本気で付き合う女性を探していて、しかも、ヘイポー氏が“M”であるのなら、同じ“M”の娘と話をしても仕方ないじゃない。


 僕も独身時代は、コンパでいきなり「ガンプラばっかりやってます。」という話から入った。友達で、「そういう話は、付き合いが決まってから、徐々にカミングアウトせえ。」と言うやつもいたが、ガンプラ製作が、日々の自分の行動を構成する、最も重要なファクターであるならば、そこから自己紹介するのは当然だ。



 大阪の女は、会話に対してフットワークが軽い。どんな内容の話でも拾い上げ、広げていくという会話術に長けているのだ。だから多少ヲタよりな話をしても、シラけたり、場の雰囲気が壊れたりすることは、ほとんどない。しかし、逆に話がガンダム一辺倒になり、コンパの会場が、妙な講習会のような雰囲気になってしまうことがある。


 これだけ見ると、確かに「オマエは相手の事を考えずに、自分中心に会話を進めすぎる。」と言うやつが出てきても仕方が無いように思える。しかし、僕だって「彼女が欲しい。」と思って、ここに足を運んできているのだ。ガンプラでここまで話を広げている場合じゃあないというのも分かっている。・・・のに、なぜ話を続けるのか。


 答えは簡単。女の子がガンダムに質問を集中させてくる時点で、そのコンパは終わっているのだ。いや、お互いのパートナーを探すという、当初の目的が変わっていると言い換えよう。


 大阪の人間は、つまずき、転んでも、ただで起き上がることを嫌う。コンパだって同じ。自分の気に入った相手が見つからなくても、手ぶらでは帰らない。具体的にいうと、「このコンパは外した。」と思ったら、その時点で、そのコンパがいかに外れだったか、ということを、自分の周囲におもしろおかしく話す為に、ネタ集めに入るのだ。


 「昨日のコンパどうだった?」と聞かれて「すごく良かった!」と答えるよりも、「最悪やったわ~。」と答えるほうが、周囲の食いつきがいいのも分かっているので、一旦この方向に走り出したら、もうブレーキはかからない。


 女の子は「昨日、こんなおかしなヤツがいた。」という事を、友達に脚色を交えながら、うまく説明する為に質問を続け、自分は「コンパで最初から最後までガンプラの話題を通した。」という武勇伝を作る為に、より変人度を強調しながら話を続ける。お互いが自分の持ちネタという銃に弾を詰め込むのに必死である。


 この空気が読めずに、話題をテーマパークやアウトドアに振ろうとするやつを見て、いつもこう思う。


 「時すでに遅いのだよ。」と。




 我が家のガンプラ製作ルームで、ヨメがクロスボーンを組んでいる。こちらから勧めた訳ではなく、自分から組んでみたいと言い出した。独身時代、結婚相手について、「自分がガンプラを作るのに、文句はいっても、せめて反対さえしてくれなければ、それでいい。」。そう考えていた僕にとっては、予測だにしなかった光景である。


 当たり前だが、自分が心の底から楽しいと思うことだって、人はそうとは限らない。「自分の趣味に、無理して合わしてくれてんじゃないか。」と、心配する一方で、やはりこの光景は、嬉しく、楽しい。


 まあ、根を詰めず、ぼちぼちとやっとくんなはれ。
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